フリック入力に慣れるまでの時間
この記事の要点 新しい入力方式は「速くなる」前に、まず「考えなくなる」段階を通る。 フリック入力の習熟は、速度よりも誤入力の減少として先に現れることが多い。 慣…
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この記事の要点
通知音が鳴っても、もう驚かない。これはたぶん、適応の一種だ。数年前なら画面を反射的に見ていたところを、今は半分無視できる。けれども無視できることと、影響を受けないことは、同じではない。慣れたつもりでいても、注意は一瞬だけそちらへ引かれている。その一瞬の積み重ねが、どこへ消えているのかを、私たちはあまり考えない。
適応という言葉には、前向きな響きがある。環境に合わせて自分を調整し、負担を減らしていく過程だからだ。通知に対しても、私たちは確かに適応してきた。鳴るたびに手を止めていた状態から、後でまとめて見ればよいと判断できる状態へ。この変化は、生活を成り立たせるための合理的な調整に見える。
ただし、慣れによって消えるものと、消えないものがある。経営学者ソフィー・ルロワは2009年の研究で「注意の残留(attention residue)」という概念を示した。一つの作業から別の作業へ移るとき、前の作業の一部が頭に残り、次の作業の質を下げるという考え方だ。通知による中断も、これに当てはまる。割り込みそのものに慣れても、中断された作業へ戻るまでの立ち上がりは、慣れでは短くならない。
つまり、私たちが適応したのは「通知に驚かないこと」であって、「中断の代償をなくすこと」ではない。一方で、この区別は体感しにくい。驚かなくなった分だけ、自分は影響を受けていないと感じてしまう。慣れが進むほど、代償は見えなくなる。
適応の厄介な点は、それが静かに進むことだ。ある日を境に慣れるのではなく、気づいたら慣れている。だから本人は、自分が何を受け入れたのかを振り返る機会を持ちにくい。もっとも、これは通知に限った話ではない。スクリーンタイムという指標が利用時間を可視化しようとするのも、こうした「見えない適応」を本人の目に触れる形へ戻そうとする試みだと言える。
では、慣れを巻き戻すべきなのか。そう単純でもない。すべての通知に毎回反応していたら、生活は成り立たない。ある程度の鈍感さは、むしろ必要な防御だ。問題は、その鈍感さが本人の選択によるものか、それとも環境に押し流された結果かにある。前者なら適応であり、後者なら順応に近い。
適応は止められないし、止める必要もない。けれども、自分が何に慣れ、その慣れが何と引き換えだったのかを、ときどき確かめることはできる。通知の設定を一つずつ見直してみると、いつのまにか受け入れていた割り込みが、思いのほか多いことに気づく。通知設計がこの十年でどう変わったかを知ると、その割り込みの一部は、こちらが望んだものではなく、送り手側の都合で設計されたものだと分かる。
慣れることは悪くない。むしろ生きていくうえで欠かせない能力だ。問われるのは、その慣れを自分で選び直せるかどうかである。通知に驚かなくなった私たちが次に取り戻せるのは、何に慣れるかを決める側に回ること、なのかもしれない。
参考にした資料
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