エンゲージメントは何を測っているのか
この記事の要点 エンゲージメントは「満足」ではなく「反応の量」を測る指標である。 反応が多いことは、必ずしも使い手の利益とは一致しない。 指標を目的にすると、指…
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この記事の要点
週に一度、画面の利用時間を知らせる通知が届く。先週より何時間増えた、減った。この数字を見て、少し反省したり、安心したりする。スクリーンタイムは、見えにくかった自分の行動を数字にして返してくれる、便利な仕組みだ。けれども、この数字が何を測り、何を測れていないのかは、案外あいまいなまま使われている。
スクリーンタイムが測るのは、画面に向かっていた時間の総量だ。これは確かに有用な情報である。静かに進む適応を、本人の目に触れる形に戻してくれる。見えない行動を可視化することには、それ自体に意味がある。問題は、可視化されたものが行動の一面でしかない、という点だ。
同じ一時間でも、その中身はまるで違う。語学を学んだ一時間と、惰性で画面を流した一時間は、スクリーンタイムの上では同じ「一時間」として並ぶ。指標は、時間の長さは測れても、その時間に何が起きていたかは測れない。ただし、これは指標の欠陥というより、量を測る仕組みの本質的な限界だ。
ここで思い出したいのは、行動の価値は文脈に依存するということだ。連続記録が、内容の薄い数分でも記録上は「続いた」とみなすのと同じ構造がある。数字は、定義された範囲のことしか映さない。映らないものは、存在しないかのように扱われる。
指標には、注意を集める力がある。数字が目の前にあると、人はその数字を改善しようとする。一方で、この力には副作用がある。測られている数字に注意が向く分、測られていないものへの注意が減る。スクリーンタイムを減らすことに気を取られて、その時間に何をしていたかという、より大事な問いが後回しになる。
もっとも、だから指標が無意味だというわけではない。量の把握は、質を考えるための出発点になる。長すぎると感じたら、その中身を振り返るきっかけにできる。問題は、量の削減そのものが目的化したときだ。数字が下がれば良し、という単純な評価に落ち着いてしまうと、指標は鏡ではなく目隠しになる。
スクリーンタイムと上手に付き合うには、数字を入り口として使い、そこで止まらないことだ。何時間使ったかを知ったら、次に問うべきは、その時間に満足したかどうかである。裏を返せば、満足していたなら、時間が長いこと自体は必ずしも問題ではない。
行動を測ることは、行動を理解するための一歩にすぎない。ログとエスノグラフィの間で論じるように、数字で測れる部分と、観察でしか分からない部分がある。スクリーンタイムは前者の代表だ。その数字を信頼しすぎず、しかし無視もせず、行動の一面を映す道具として扱うこと。指標との距離の取り方こそが、測ることを役に立てるか、振り回されるかを分ける。
参考にした資料
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